若き武蔵を剣豪へと育てた舞台、龍野

武蔵は播州龍野藩の領内に滞在し修行した。
龍野御坊圓光寺の境内の道場において修行しつつ、弟子達に指南し、
圓光寺住持の多田半三郎頼祐に圓明流の印可状を与えている。
武蔵は「兵道鏡」をここで書いたとも言われている。
その門流は龍野脇坂藩のみならず安芸浅野藩にも伝承された。

 ■剣豪武蔵
 宮本武蔵は江戸初期の剣豪、二刀の圓明流・二天一流(二刀一流)の流祖であり、兵法書として「兵道鏡」、「兵法三十五箇条」、「五輪書」を残しています。
 

 ■武蔵の出生年
 

武蔵は伝記の不明なところが多く、出生の年については諸説がありますが、寛永二十年<1643>に書きはじめられた「五輪書」(天保二年<1645>完稿)の序にある「年つもりて六十」から逆算して天正十二年<1584>から有力であり、没年は天保二年<1645>とされています。

 

 ■武蔵の出生地
 

出生地については播磨の高砂市米田説と揖保郡太子町宮本説、美作の英田郡大原町宮本説がありますが、「五輪書」の序に「生国播磨の武士」と記していること、武蔵の養子伊織が「泊神社棟 札」(承応二年<1653>)に伊織の父は田原久光であり、伊織は武蔵の養子になったことをしるしていること、伊織の家系を記した「小倉宮本系図」に武蔵を久光の弟と記していることなどから伊織の出生地でもある印南郡米田村(現在の高砂市米田)説が浮上し てきました。しかし、伊織の出生地の隣村である印南郡平津村(現在の加古川市米田)在住の平野庸脩が享保四年<1719>から四三ヶ月を費やして宝暦十二年<1762>に完成した地誌「播磨 鑑<はりまかがみ>」に伊織の出生地を印南郡米田村としたうえで、「宮本武蔵揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産ナリ」と記していることから、太子町宮本説も有力視されています。 

 

 ■武蔵と龍野
 

その伝記において諸説があるなかで、龍野圓光寺多田家系図やその住持多田半三郎頼祐<よりすけ>(第七代祐甫<ゆうほ>)から三浦源七延貞<のぶさだ>、さらにその弟子多田源左衛門祐久<すけひさ>とその系諸が記された圓明流印可状などから、宮本武蔵は圓光寺に滞在し て、弟子たちに指南していたことが確かな足跡として知られています。
 その門流は、龍野において祐久から脇坂弥五右衛門一成へ、さらに同弥五右衛門一倫と継承され、藩内に広まっています。

 

 ■武蔵のもう一つの顔
 

一方、武蔵は絵画では重要文化財の「枯木鳴鵙図<めいげきず>」をはじめ、「蘆雁図<あしかりず>」・「鷺<さぎ>の図」などの優れた墨絵を描き、書では 白楽天の名句を揮毫<きごう>した「戦気寒流帯月澄如鏡」があります。工芸面では木彫「不動明王」や鞍<くら>・鍔<つば>、造園面では、明石の円珠院、本松寺、明石城の庭園を造り、明石の町割(都市計画)をしたという記録もあります。
 「五輪書」には「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」(水の巻)という言葉がみられますが、武蔵は書画、彫刻、造園にも親しんで余技の域を超え、剣においては術を越えて道の域に達したといえます。龍野 の地、そして圓光寺は武蔵にとって厳しくも懐かしい鍛錬の地であったと思われます。